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カテゴリ「ウォーク⑥各種団体ウォーク」の57件の記事 Feed

2016年4月 5日 (火)

奈良の色々な ”門” を訪ね歩く ~ 後編

 ボランティア・ガイドさんの説明を聞きながら、奈良市内の色々な”門”を訪ね歩いた、後半です。

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 第6番目の門、東大寺・南大門(国宝)。五間三戸の「二重門」形式の門で、高さは25.5m、桁行28.8m、梁行10.8m、直径1m・長さ19.2mの柱18本の、わが国最大の山門です。天平時代の創建時の門は平安時代に大風で倒壊し、現在の門は鎌倉時代に再建されたものです。ちなみに、「二重門」形式とは二階建ての門のことで、各々の階に屋根が付いているもの云います。二階建てだが一階部分は縁だけで屋根がなく、二階部分にだけ屋根があるものは「楼門」と呼ばれます。 ㊟ 桁行:正面から見て右端の柱から左端の柱までの長さ。梁行:正面から見て最前部の柱から最奥の柱までの長さ。屋根先端部分の出っ張りは、挿肘木(さしひじき)で支えています。

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2016年4月 3日 (日)

奈良の色々な ”門” を訪ね歩く ~ 前編

★なら観光ボランティアガイドの会 「もっと知りたい 門のこと!転害門の魅力」 3/27

 奈良については、個人的に色々調べてみたいことがあります。例えば、奈良市内を流れる「率川(いさがわ)」です。江戸時代の地図には明解に描かれているこの川も、現在は都市整備などで道路になってしまうなど、殆どが暗渠(あんきょ)化され、どのように流れていたのかよくわかりません。猿沢池からJR奈良駅辺りまでは何回か調べ歩いたのですが、その前後は未確認です。また「奈良奉行」も同様に興味があります。江戸時代は今の奈良市は(当時は奈良町と呼ばれていましたが)京都市などと同様に、徳川幕府の直轄地でしたので、町奉行の役割や実績がどのようなものだったのか興味を持っています。先日「近世の奈良と奈良町奉行」という講演会があったのですが、あいにく都合がつかず、参加することが出来ず、とても残念でした。今回は「門」についての予約制の実地見学会でした。奈良に限らず、歴史遺跡を巡り歩く際に、出会う建造物にまつわる”門”について、いろいろ学べる企画でしたので、早々に申し込んでおきました。

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 当日は、奈良県庁前に「13時集合、受付は12時30分から行います」ということで、JR奈良駅からゆっくりと歩いて、12時50分頃に到着しました。スタッフ以外、余り参加者が見当たらず不思議に思っていたら、12時半からの受け付けが終了した人たちから順々に、10数人づつの班になって、既に出発済みでした。私は7斑となり10数人集まった時点でスタートとなりました。このあとの8斑が最終組だったようです。本日は12の門を訪ね歩きます。

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2015年6月28日 (日)

2015 上期 その他のウォーキング記録 ②

★天理市主催 「てくてくてんり・春の植物観察」 4/25

 毎年恒例の春の植物観察・100名限定企画があり、早々と友人の分も含めて申し込んでおきました。

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 JR桜井線(万葉まほろば線)柳本駅で下車、徒歩15分のところにある黒塚古墳の古墳展示館前で受付です。参加者を3班に別けて、植物専門の講師について歩きます。

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2015年6月27日 (土)

2015 上期 その他のウォーキング記録 ①

 光陰矢の如しで、今年も早や半分が過ぎ去ろうとしています。2015年度上期(1-6月)に参加したイベント・ウォーキングのうち、ブログに取り上げられなかった未整理分の回顧記録です。

★JRハイク 「戦国時代の甲賀路を歩こうー田中酒造」 3/22

 JR草津線・甲賀駅に集合。今回は甲賀の山城跡や寺社を巡りました。

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 駅前広場の甲賀忍者の銅像です。ちなみに甲賀は、「こうが」と濁らず、「こうか」と発音します。

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2015年6月15日 (月)

高取 いろいろ探訪

 奈良県・高取町は、明日香村(飛鳥)の南端に位置し、日本屈指の山城・高取城の城下町として、あるいは壺阪寺の門前町として、更には製薬の町として、古来より栄えてきたところです。今回のウォーキングでも、盛り沢山に高取の色々のところを訪ね歩きます。

★桜井・森とふれあう市民の会 「高取を巡る」 5/31

 当日は近鉄・吉野線「市尾駅」に午前9時に集合です。50名限定企画のこの会も、常連参加者に加えて、今回初参加の人々が10数名みられました。

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 市尾墓山古墳 の見学からスタートです。よく管理された古墳は、墳丘の長さが70m、高さが10mの前方後円墳です、墳丘上の樹木類もないので、古墳の全体を明瞭に見ることが出来ます。出土遺物から6世紀初め、古墳時代後期の古墳と推定されています。

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2015年4月12日 (日)

京都観桜ウォーク ~ ② 八幡・背割提

 伏見・三栖閘門から宇治川堤防上の歩道を歩き、淀・八幡(やわた)方面に向かいます。

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 宇治川堤防とクロスする、阪神高速道路・京都線や国道1号線の鉄橋の下を通り抜けると、しばらくは京阪電車本線と並行しながら歩きます。京阪2400系 淀屋橋行き準急電車です。

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2015年4月11日 (土)

京都観桜ウォーク ~ ① 伏見・宇治川派流のサクラ

 今年の桜は、開花から満開まで稀に見る早さで推移しました。しかも天候は、春特有の「花曇り」を通り越して、連日降雨が伴う、行楽には最悪のパターンでした。定例の健康ウォークも先月で終了。終了時には仲の良かった有志たちで、今後も定期的にウォークを楽しむことを約束し、第1回は4/3に行おうと日程だけ決めて別れました。

★健康ウォーク有志会 「伏見から淀へ 観桜ウォーク」 4/3

 半月程前に企画連絡が来て、”背割提の桜” を見に行くことになりました。天気予報では、4/3は午後から雨とのことでしたが、雨でも決行するむね再連絡があり、当日は傘をぶら下げて、集合地である近鉄・桃山御陵前駅へと電車で向かいました。24名が集まりました。

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 伏見・大手町商店街のアーケードを抜け、竜馬通り商店街を下ります。

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2015年4月 6日 (月)

記紀万葉ウォーク ~ 飛鳥に推古天皇を訪ねて

★飛鳥京観光協会主催 「日本初の女帝”推古天皇”の生涯をたどる」 3/29

 正月に橿原神宮へ初詣ウォークに行った直後の1/15に、全国トップニュースで流れた「小山田(こやまだ)遺跡発見」の報道は、世間の大きな関心を呼びました。なにしろ、飛鳥・石舞台古墳よりも大きな規模の古墳ということなので、考古学ファンならずとも騒ぎ立てるのは当然でした。TVや新聞では第34代・舒明(じょめい)天皇の墓ではないかと報じられましたが、小生は1/17付の当ブログにて「蘇我蝦夷(そがのえみし)」の墓ではないかと、自分なりの推測を述べました。今回のウォーク・テーマは”推古天皇”ですが、コース途中では甘樫丘に登り、この小山田遺跡を上から眺められそうなので、古代史ファンの親友と連れ立って、ウォークに参加しました。

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 近鉄・飛鳥駅前に各地から参加者が集結。天気予報は雨とのことで、主催者の人も「雨の予想のなか、多くの人たちに参加していただき有難うございます」と、喜んでおられました。

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2015年4月 2日 (木)

大坂夏の陣 ~ 大阪市内ゆかりの地を巡る

 大坂の陣400年に当たる昨年から今年にかけては、各種関連イベントが多々行われています。昨年は冬の陣400年でしたが、今年は夏の陣400年に当たり、2月から3月にかけて、私も「木村重成・戦跡コース」、「真田幸村・戦跡コース」、そして「後藤又兵衛・戦跡コース」のウォークに参加してきました。今回は大阪市内のゆかりの地を歩くということで、これまでの総括という意味からも参加いたしました。今までの大坂の陣・関連参加ウォーク等については → こちら

★ラジオ大阪主催 「大阪歴史健康ウォーク」 3/29

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 集合地の大阪・四天王寺・中門前広場です。四天王寺は飛鳥時代に聖徳太子が創建した、大阪を代表する大寺院です。戦国時代の頃には相当荒廃しており、豊臣秀吉・秀頼の二代に渡って大伽藍が再興されましたが、大坂冬の陣で焼失、灰燼に帰しました。その後、徳川の手で再建されるも、落雷で焼失。文化9年(1812)に再建されるも、昭和9年(1934)室戸台風で大被害を蒙る。またもや再建されるも、昭和20年(1945)大阪大空襲で焼失。現存の中心伽藍は、昭和32年(1957)から再建にかかり昭和38年(1963)に完成したもので、鉄筋コンクリート造となりますが、飛鳥建築の様式は再現されています。

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2015年3月13日 (金)

大坂の陣ウォーク ③ ~ 後藤又兵衛 その二

★徳川家康は後藤又兵衛に殺された? 

 ここでは、前回のウォークの関連として、後藤又兵衛と徳川家康の死について記してみたいと思います。徳川家康は、夏の陣にて又兵衛に槍で突かれて殺されたと云う伝説はかなり根強いものがあります。

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 大坂の陣で家康を槍で仕留める後藤又兵衛の図 (写真の錦絵は、2015.2.6付産経新聞夕刊に掲載されたもので、四代目旭堂南陵氏が所有する明治・大正時代に出版された講談社本の挿絵です)。真田幸村により家康の本陣が突き崩され、逃げ回る家康が後藤又兵衛に討たれたとする伝説に基づく絵画です。
 家康は真田幸村の突撃から逃れると、駕籠へと乗り継ぎ、堺に向けて遁走するも、その駕籠が怪しいと睨んだ後藤又兵衛が駕籠の上から槍を突き刺します。確かな手ごたえを得るも、駕籠は必死で敵を振り切り、堺の南宋寺に逃げ込みます。すぐに駕籠の中が開けられると、既に家康は絶命していた‥と云われています。

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2015年3月11日 (水)

大坂の陣ウォーク ③ ~ 後藤又兵衛 その一

★大坂の陣400年プロジェクト実行委員会・産経新聞社主催 「後藤又兵衛と大坂の陣戦跡コース」 3/1

 大坂夏の陣の最激戦地の一つであった道明寺の戦いの記念碑や、小松山の戦いで敗れた後藤又兵衛の碑、真田幸村と伊達政宗が戦った地などを巡ります。

 後藤又兵衛基次 : 後藤又兵衛は、慶長の役(第二次朝鮮出兵)や関ヶ原の戦いなどで武功をあげ、黒田長政から筑前・大隅の城を預けられ、1万6千石を領した。しかし、黒田と仲の悪かった細川忠興と又兵衛は通じていると長政に疑われ、次第に長政との折り合いが悪くなり、黒田家を出奔する。しかも、長政が行った嫌味な奉公構(ほうこうかまえ)により、他藩に仕えることも出来ず、浪々の身となる。奉公構とは、大名が出奔した家臣等について、他家が召抱えないように釘を刺す回状を出すこと。やがて又兵衛は豊臣秀頼の招きに応じて大坂城に入る。家康は、又兵衛の武将としての能力を高く評価し恐れていたため、長政を説き伏せ、黒田家への帰参を取り付けるが、又兵衛は応じず。更に徳川は又兵衛の次子・左門を人質に取り又兵衛に圧力をかけるが、左門は自分が捕らわれていると、父・又兵衛の決断を狂わせるとして自尽する。夏の陣の「道明寺の戦い」では、味方との連携作戦がかみ合わず、小松山で10倍以上の徳川軍に対し、孤軍奮戦するも、鉄砲で身体を射抜かれて落馬、家臣に首を取られぬよう命じ、介錯されて戦死した(享年56歳)。

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 玉手山ふれあいパーク・歴史館に飾られていた後藤又兵衛の画像(原画は福岡市博物館蔵の「黒田二十四騎画帖」に収められている又兵衛です)。

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2015年2月25日 (水)

大坂の陣ウォーク ② ~ 真田幸村 その一

★大坂の陣400年プロジェクト実行委員会・産経新聞社主催 「真田幸村と大坂の陣戦跡コース」  2/22

 日本一の兵(ひのもといちの つわもの) と呼ばれた真田幸村が、大坂の陣の際に戦勝祈願をしたとされる神社や、地雷をしかけた場所、徳川軍ゆかりの寺などを巡ります。

 真田幸村 : 関が原の戦いでは、兄(信行)と袂を分かち、父(昌幸)と共に西軍に加勢するも、敗戦で浪人となり、九度山で困窮の生活を送る。そうした窮状から救い出し、再び武士の誇りを持たせてくれたのが豊臣秀頼で、慶長19年(1614)10月頃に大坂城に入ります。幸村は、大坂城の弱点は城の南方であると見破り、ここに「真田丸」という出城を構築します。そして、冬の陣での「真田丸の戦い」では、幸村は徳川方の大軍に大打撃を与え、徳川勢はおびただしい死傷者を出して撤退に至ります。幸村を甘く見ていた家康は、冬の陣の和議後、幸村に大封を与えることを条件に寝返りを促しますが、秀頼の恩義に報いるため、幸村は断ります。家康は次の戦いを想定し、大坂城の堀を埋め、真田丸を徹底的に破壊してしまいます。大坂の陣では、豊臣方にはリーダーシップを取れる大将がおらず、幸村の提言も城内の重臣たちに受け入れられず、野戦も連携作戦がかみあわず、「今はこれで戦は終わり也。あとは快く戦うべし。狙うは徳川家康の首ただ一つ」と、真っ正面から家康本陣に狙いを定めて突撃を三度も敢行、徳川勢は総崩れとなり、家康は自害を二度も覚悟したほどだったと云われます。しかし多勢に無勢、次第に追い詰められ、傷ついた身体を休めていたところを、敵兵に発見され、「わしの首をとって手柄にされよ」と述べて、潔く討ち取られていきました(享年49歳)。

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 大坂の陣で家康本陣に突撃する真田幸村の図 (写真の錦絵は、2015.2.6付産経新聞夕刊に掲載されたもので、四代目旭堂南陵氏が所有する明治・大正時代に出版された講談社本の挿絵です)。真田幸村は、真田信繁(のぶしげ)が正しい名前ですが、死後、寛文12年(1672)に世に出た軍記物語『難波戦記』に「幸村」としての名が初めて記され、以後、急速に幸村と呼ばれるようになりました。

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2015年2月20日 (金)

大坂の陣ウォーク ① ~ 木村重成 その二

★大坂の陣400年プロジェクト実行委員会・産経新聞社主催 「木村重成と大坂の陣戦跡コース」 2/15

 大坂冬の陣で初陣を飾り、夏の陣で散っていった豊臣軍・木村重成の陣屋跡や墓、徳川軍が首実検をした際に使用した床が天井板として現存する寺などを巡ります。

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 第二寝屋川の橋を渡った(八尾市側の)川畔にある幸町公園(木村公園とも呼ばれる)入口に建っている 「此附近 木村重成 奮戦地」 と書かれた石碑です。

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2015年2月18日 (水)

大坂の陣ウォーク ① ~ 木村重成 その一

★大坂の陣400年プロジェクト実行委員会・産経新聞社主催 「木村重成と大坂の陣戦跡コース」 2/15

 大坂冬の陣で初陣を飾り、夏の陣で散っていった豊臣軍・木村重成の陣屋跡や墓、徳川軍が首実検をした際に使用した床が天井板として現存する寺などを巡ります。

 木村長門守重成 : 生年が明確ではありませんが、文禄2年(1593)頃?とも云われ、文禄2年なら豊臣秀頼と同じ生年となりますが、生まれたのは重成の方が先でした。重成の母(宮内郷局=くないきょうのつぼね)は、秀頼の乳母となったので、重成は幼少時より秀頼の小姓として、大阪城で秀頼と一緒に遊び育った、秀頼唯一の幼友達で、元服後は秀頼の信頼が最も高かった武将です。勇敢で礼儀正しく、教養が高く、背も高くて美男子だったそうですから、大坂夏の陣の「八尾・若江の戦い」で、若干23歳で戦死した時には、大阪城内すべての女性が泣き崩れたと云う話が残っています。惜しむらくは、重成がもっと早く生まれていて関が原の戦に参戦でもしていたら、きっと大活躍しただろうし、歴史も変わったかもと思えてなりません。

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 木村重成の位牌が祀られている若江・蓮城寺に奉納されている 木村長門守重成の肖像画 です。この絵を画いたのは、馬堀法眼喜孝画伯だと聞きました。馬堀法眼の名前は殆ど知られていませんが、旧一万円札の聖徳太子、旧千円札の伊藤博文、旧五百円札の岩倉具視などの肖像画を描いた人物で、肖像画の第一人者です。

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2014年12月11日 (木)

山科散策 ④ ~ 随心院

 勧修寺の見学を終え、バスで 随心院(ずいしんいん) まで移動です。随心院は、京都市山科区小野と云う地区にある門跡寺院です。小野と云う地名は、平安時代に栄えた小野一族の本拠地であったことに由来します。大和朝廷の使者として(遣隋使として)2回も中国に渡った小野妹子(いもこ)、平安時代にあの世とこの世を行き来したと云う霊界の主・小野篁(たかむら)、同じく平安時代に和様書道の基礎を築いたと云われる小野東風(とうふう)などを輩出した名門です。随心院は小野一族の中でも、最も世に知られている 小野小町ゆかりの寺 です。

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 随心院の正門である薬医門。かつては時代劇映画の大名屋敷などに良く使われたロケーションです。勅旨門ですから、拝観は左隣の通用門から入ります。

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