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カテゴリ「歴史遺跡」の67件の記事 Feed

2016年10月 9日 (日)

飛鳥を歩く ~ キトラ古墳

 台風15号は発生後、短時間で巨大台風に成長しましたが、萎えるのも早く、本土上陸前には、あっけなく熱帯低気圧に変わってしまい、胸をなでおろした人も多かったことと思います。日本海方面から本土を直撃する珍しいコースをとるタイプでしたが、地球温暖化の影響は、今後とも台風を増産し、予想外のコースをとる台風が増えてきそうです。さて、翌日(10/6)は、朝から好天気で外出日和でしたが、私は足の外来診察日なので、朝一番に病院でレントゲンを撮ってもらい、医師との面談では順調に回復中とのお墨付きをもらいました。今日は病院で待たされることもなく、10時過ぎには帰宅出来ましたので、歩きに行くことにしました。久しぶりに奈良の「山の辺の道」か「飛鳥」を歩きたいと思っていましたので、先月末に待望のオープンを果たしたキトラ古墳のある「飛鳥」へ行くことにしました。

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 つい先日の9月24日に、奈良県・明日香村に「キトラ古墳壁画体験館 四神(しじん)の館」を中核施設とする「国営飛鳥歴史公園・キトラ古墳周辺地区」が開園しました。写真は復元されたキトラ古墳です。高松塚古墳壁画の発見直後、付近の住民から「近くに似たような古墳がある」との情報提供があり、これがキトラ古墳の発掘調査に繋がる糸口となりました。1983(昭和58)年にファイバースコープによる探査が行われ、石槨の奥壁に玄武(亀)と思われる壁画が発見されました。以来、実に33年の月日が流れ、ようやくその全貌を私たちが知ることが出来るようになりました。

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2016年7月 7日 (木)

天王寺界隈 ~ 花と歴史を訪ねて

 所用で大阪に出掛けた折に、少しの間、天王寺界隈を歩いてみました。一昨年は大坂冬の陣400年、昨年は大坂夏の陣400年の記念年でしたので、この周辺は徹底して、何度も歩き廻りましたが、今年もNHK大河ドラマ「真田丸」の人気にあやかって、引き続き、各種イベントやウォーク企画が盛り沢山に行われているようです。今日は一人で、久しぶりに茶臼山周辺の一心寺と安居神社に花と歴史を訪ねてみました。

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 ジャカランダ。ノウゼンカズラ科ジャカランダ属の落葉樹。南米の熱帯~亜熱帯地方が原産地です。葉は2回羽状複葉で(1回羽状複葉または単葉の品種もあるそうです)、見かけはアカシアやネムノキに似ています。花は藍色または青紫色が基本で、ピンクや白色もあります。花が奇麗なので熱海や宮崎などでの温暖地では、観光の一役を担うべく植樹されています。大阪では一心寺のものが有名で、この花も一心寺で撮影しました。訪れた時期が遅くて、もう僅かしか花は残っていませんでした。

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2016年5月18日 (水)

ちょっとだけ歩いた 山の辺の道

 酒と日本史探訪が共通の趣味で、一番のウォーク友達だった親友が病に伏して早や半年が過ぎようとしています。彼が元気だった頃には、毎月のように「飛鳥」や「山の辺の道」などを訪れていました。今年(2016)の9月末には「国営飛鳥歴史公園・キトラ古墳周辺地区」が開園予定で、楽しみにしてたのですが、同行は難しそうです。古代ロマンを一緒に語り合えなくなり、自然と足も遠のいて、今年は2月に山の辺の道を訪ねただけで、しばし ご無沙汰しています。先般、ヒメフウロをアップした時に、ヤワゲフウロのことが頭に浮かびました。ヤワゲフウロなら「山の辺の道」に沢山咲いています。昔のように、好きだった古墳に立ち寄りながら、「山の辺の道」を、ちょっとだけ歩きに行って来ました。

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 大和朝廷の創始者とされる第10代天皇を祀る 行燈山(あんどんやま)古墳 です。天皇の名前をとって、崇神(すじん)天皇陵 と呼ばれます。古墳は天皇陵のため、陵墓の中に入ることは出来ません。初代・神武天皇亡きあと、第2代・綏靖(すいぜい)天皇から第9代・開化天皇までの8人の天皇は、古事記や日本書紀に系譜は記載されているものの、その事績が全く記されていないため、この期間は「欠史八代」と云われ、実在されたのかどうか確認出来ていません。従って、この第10代・崇神天皇が 考古学上、実在されたことが明確に分かっている最初の天皇です(欠史八代は後世で創作された可能性が高いということです)。

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2016年4月 5日 (火)

奈良の色々な ”門” を訪ね歩く ~ 後編

 ボランティア・ガイドさんの説明を聞きながら、奈良市内の色々な”門”を訪ね歩いた、後半です。

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 第6番目の門、東大寺・南大門(国宝)。五間三戸の「二重門」形式の門で、高さは25.5m、桁行28.8m、梁行10.8m、直径1m・長さ19.2mの柱18本の、わが国最大の山門です。天平時代の創建時の門は平安時代に大風で倒壊し、現在の門は鎌倉時代に再建されたものです。ちなみに、「二重門」形式とは二階建ての門のことで、各々の階に屋根が付いているもの云います。二階建てだが一階部分は縁だけで屋根がなく、二階部分にだけ屋根があるものは「楼門」と呼ばれます。 ㊟ 桁行:正面から見て右端の柱から左端の柱までの長さ。梁行:正面から見て最前部の柱から最奥の柱までの長さ。屋根先端部分の出っ張りは、挿肘木(さしひじき)で支えています。

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2016年4月 3日 (日)

奈良の色々な ”門” を訪ね歩く ~ 前編

★なら観光ボランティアガイドの会 「もっと知りたい 門のこと!転害門の魅力」 3/27

 奈良については、個人的に色々調べてみたいことがあります。例えば、奈良市内を流れる「率川(いさがわ)」です。江戸時代の地図には明解に描かれているこの川も、現在は都市整備などで道路になってしまうなど、殆どが暗渠(あんきょ)化され、どのように流れていたのかよくわかりません。猿沢池からJR奈良駅辺りまでは何回か調べ歩いたのですが、その前後は未確認です。また「奈良奉行」も同様に興味があります。江戸時代は今の奈良市は(当時は奈良町と呼ばれていましたが)京都市などと同様に、徳川幕府の直轄地でしたので、町奉行の役割や実績がどのようなものだったのか興味を持っています。先日「近世の奈良と奈良町奉行」という講演会があったのですが、あいにく都合がつかず、参加することが出来ず、とても残念でした。今回は「門」についての予約制の実地見学会でした。奈良に限らず、歴史遺跡を巡り歩く際に、出会う建造物にまつわる”門”について、いろいろ学べる企画でしたので、早々に申し込んでおきました。

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 当日は、奈良県庁前に「13時集合、受付は12時30分から行います」ということで、JR奈良駅からゆっくりと歩いて、12時50分頃に到着しました。スタッフ以外、余り参加者が見当たらず不思議に思っていたら、12時半からの受け付けが終了した人たちから順々に、10数人づつの班になって、既に出発済みでした。私は7斑となり10数人集まった時点でスタートとなりました。このあとの8斑が最終組だったようです。本日は12の門を訪ね歩きます。

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2016年4月 1日 (金)

早春の樹木 ② ~ イワナシ、アオモジ、ミヤマガンショウ 他

 京都府や隣の府県等の、山や里を歩いた折に、出会った早春の山野草たち、その4です。

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 イワナシ(岩梨)。ツツジ科イワナシ属の常緑低小木。樹木は地表を這い、10-20cmほど。茎や葉には粗い毛が生えています。草本には「スプリングエフェメラル」と云って、早春にだけ姿を見せる花々がありますが、イワナシは常緑樹ながら、この花も「春の妖精」と言っても良いくらい可愛くて美しい花です。花の後に出来る小さな果実が梨(ナシ)のように甘いのが、名前の由来ですが、この希少な植物の実を採って味見をしてみたい、と云う気持ちは起さないでください。近畿のRDB状況‥和歌山県:絶滅危惧Ⅰ類、奈良県:絶滅危惧Ⅱ類、三重県:準絶滅危惧種。

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2016年3月12日 (土)

いろいろな狛犬たち ② ~ 都祁水分神社、国津神社、梅谷天神神社

 ”丹波の佐吉”以外の、いろいろな狛犬たちの第2回目です。奈良県には4つの水分(みくまり)神社があると、先日 記しましたが、そのうちの一つ、宇太水分(うだみくまり)神社には、佐吉の狛犬がいます →こちら(”丹波の佐吉”第2回)。今回は都祁水分神社、他です。

★都祁水分(つげみくまり)神社の狛犬

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 都祁水分神社の本殿(重文)。本殿は、桧皮葺の一間舎春日造で、総丹(に=朱)塗りです。この本殿前に古い狛犬がいるはずなのですが‥、四方に瑞垣(みずがき)が巡らされています。

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2016年3月 6日 (日)

いろいろな狛犬たち ① ~ 東大寺、奈良豆比古神社、氷室神社

 ”丹波の佐吉”以外の、ウォーキング中に出会った、個人的に興味をもった狛犬~面白そうな、あるいは珍しそうな狛犬~たちを、佐吉とは別に取り上げてみました。

★東大寺・南大門の狛犬

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 大仏殿に向かう参道にある、圧倒されるほど大きな 東大寺の南大門(国宝)。「大華厳寺」と云う扁額が二層目に掲げられています。東大寺は華厳宗の大本山ですので、大華厳寺の異称が付いたようですが、東大寺の正式名は「金光明四天王護国之寺」だそうです。南大門は、入母屋造、五間三戸二重門で、下層は天井がなく腰屋根構造となっています。また屋根裏まで達する大円柱18本は、21mにも及び、門の高さは基壇上25.46mもある、大仏殿にふさわしいわが国最大の山門です。天平創建時の門は平安時代に大風で倒壊し、現在の門は鎌倉時代の建造物です。

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2016年2月21日 (日)

西の京を歩く ~ 薬師寺 と 唐招提寺

★個人ウォーク 「西の京めぐり」 2/12

 近鉄ハイク「大和郡山3城跡めぐり」は昼過ぎに終わってしまいましたので、個人ウォークに切り替えて、そのまま「西の京」へと歩きに行きました。「西の京」とは、平城京の右京を「西京」と称したことに由来すると云われています。現在の奈良市の西方に当たり、秋篠(あきしの)川の西岸一帯を指し、薬師寺、唐招提寺、垂仁天皇陵、西大寺、秋篠寺などがあります。秋篠宮殿下の宮号の由来地となったことはご承知の通りです。また、丘陵には赤膚(あかはだ)焼の窯(かま)もありますが、今回はJR奈良駅に戻る途中でしたので、道筋の薬師寺と唐招提寺を覗き見ただけです。ウォークで毎度寺院を拝観していたら、乏しい小遣いがいっぺんに消えてしまいます。でも、歩いた記録として写真は撮っておく必要もありますので、覗き見出来る範囲でカメラを向けています。

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 秋篠川沿いの「西の京」の概略図です。秋篠川は、郡山城が豊臣秀長の時代に、元の流れを外堀として利用したため、本流は城下に入る手前で直角に曲げて佐保川に合流するよう変更されました。唐招提寺まで秋篠川に沿って歩くことにしました。

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2016年2月20日 (土)

大和郡山の三城跡 めぐり

★近鉄フリーハイク 「大和郡山三つの城跡めぐり」 2/12

 「酒蔵巡り」も殆どの酒蔵は過去に何度も訪問済みで新鮮味がなく、飲み友達でもある親友が入院中とあって、この冬は狛犬や歴史遺跡を主として巡り歩いています。今回予定された大和郡山の3つの城跡のうち、筒井城跡にはまだ訪れたことがなかったので、参加してみました。

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 9時30分、スタート地点の近鉄・筒井駅で下車。改札口を出た所でウォーク仲間2名と遭遇、コース地図を受け取り、3名一緒で歩くことにしました。駅からすぐ近くの所に第一番目の城跡・筒井城跡 がありました。石碑と案内板がなければ、単なる平地でしかありません。筒井城は名前の通り、筒井順慶の主城でした。詳細は割愛しますが、戦国時代、大和では松永久秀と筒井順慶が攻防を繰り返していましたが、織田信長の支援を受けた松永久秀に筒井城を攻め取られてしまいます。しかし、順慶の力量を見抜いた明智光秀の仲介で、順慶は信長に帰属し、大和の守護として筒井城に返り咲きます。信長は「大和の城は郡山城1つに集約する」として、この筒井城や多聞城などは取り壊されてしまい、順慶は郡山城に居を移します。一方、松永久秀は信長に刃向かい、信貴山城の戦いで自害してしまいます。

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2016年2月13日 (土)

京都・山科 から 大津・三井寺へ

★シルバー健康ウォーク2月例会 「小関越え」 2/5

 京都の山科(やましな)から滋賀県の大津までの間の旧東海道・街道には、2つのルートがありました。一つは本道である逢坂(おうさか)山の関を越えるルート(現・国道1号線)、もう一つはその北側を通る裏道です。本道の東海道・逢坂越えを「大関」に例えて、裏道は「小関」越えと呼ばれました。小関越えは山科の横木町から本道と別れ、小関峠を越えて、大津宿・札の辻(現・京町1丁目交差点)で再び東海道の本道と合流する、およそ4kmの道のりです。古くから京都と北国とを結ぶ間道として利用され、また、京都から三井寺(園城寺)へ至る最短ルートだったことから、その参詣道としての一面も併せ持っていました。以前に歩いた旧東海道・本道の「逢坂の関越え」は → こちら をご覧ください。

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 午前10時、JR山科駅に集合、スタートです。今回は東海道旧道は歩かず、すぐに北上し、琵琶湖疎水に沿って歩き、途中で小関越えルートに合流します。疎水の散策道から見た東海道本線(琵琶湖線)と湖西線です。左手が大津方面、右手正面が京都・東山方面です。

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2016年2月 9日 (火)

”丹波の佐吉” 第11回

★橿原市・久米御縣神社

 久米御縣(くめのみあがた)神社を訪ねました。祭神は大久米命(おおくめのみこと、日本書紀では大来目命と記す)です。記紀によりますと、大久米命は、天孫降臨では瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を先導し、その後、神武東征に同行し、宇陀の豪族の兄宇迦斯(えうかし)や、忍坂の土蜘蛛を打ち倒します。橿原に着いた神倭伊波礼琵古命(かむやまといわれひこのみこと)は、やがて即位し、日本最初の神武天皇となります。このときに三輪山の麓に住んでいた大物主命の娘・伊須気余理比売(いすきよりひめ)をお后にと薦めたのが、この大久米命でした。大久米命は、この地に住み着き、一帯は「久米村(来目邑)」と呼ばれるようになりました。

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 さて、今回はこの神社の境内にいます ”丹波の佐吉” の狛犬に会いに来ました。久米御縣神社は、道路から一段高いところに、玉垣に囲まれて西向きに建てられていました。晴天なら西日で悩まされるところでしたが、訪ねた時間には、うまい具合に薄曇りに変わってくれました。鳥居越しの拝殿前に狛犬が見えています。

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2016年2月 3日 (水)

藤原京跡あたりを ぶ~らぶら

 日本史と酒をこよなく愛する同好の、長年の親友が病に倒れ、入院見舞いに行って来ました。親友たちの相次ぐ怪我や病気によるウォークからの離脱で、淋しくなる一方の此の頃ですが、気持ちまで沈んではいけないので、暖かい日を選んでは、一人で好きな歴史遺跡などを巡っては、心を明るく持つようにしています。

★藤原京跡~橿原神宮~久米寺 1/27

 近鉄・大和八木駅から ぶらぶらと歩きだして約半時間強で、藤原京跡 に到着です。時間はお昼前でしたので、広大な芝生には、先着のハイカーたちが各々シートを敷いてお弁当中でした。私も腰をおろし、おにぎりを食べながら、しばし古代のロマンに浸ります。

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 藤原京は、第41代・持統天皇が、亡き夫である第40代・天武天皇の意思を継ぎ、中央集権国家確立のために、飛鳥から都を移してこの地に、中国の都城制を模して造らせた、日本初の本格的な都城です。その大きさは、東西5.3km、南北4.8kmに及び、この後に造られた平城京や平安京をもしのぐ古代最大の都でした。藤原宮跡から東南方面を望むと、左手前に見える低い丘陵が 天の香久山です。香久山は、大和三山の中でも特別に神聖視されていたので、持統天皇も「天の」と尊称を付けて歌を詠まれています。
”春過ぎて 夏来たるらし 白たへの 衣干したり 天之香来山”  持統天皇<万葉集>
 ちなみに、「天之」は万葉集では「あめの」と読むのが正しくて、「あまの」と読むのは間違いですし、また万葉集では「衣干したり」が正しくて、「衣ほすてふ(ほすちょー)」なんて読み書きするのは、藤原定家が小倉百人一首に取り上げた時に勝手に改作したものです。

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2016年1月30日 (土)

”丹波の佐吉” 第10回

 猛烈な寒気が日本列島を襲うと天気予報で言っていたのに、2日もすると、一転して例年以上の暖かい春のような日が続きます、と目まぐるしく変わるなど、今冬の気温の大きな変動に振り回されて、予定していたウォークを取り消したり、予定のなかった日が余りにも良い天気となり、今日出掛けなくて何時出掛けるのか?と自問しながら、アテもなく出掛けたりで、もう予定は滅茶苦茶です。そういうアテのない時は、野鳥観察に行くか、歴史遺物でも見に歩くのが殆どです。前回は野鳥だったので、今回は ”丹波の佐吉” を訪ねることにしました。私にとって、幾らお日柄が良くても、野鳥にとってはお日柄が悪くて不在、と云うケースが多いのですが、佐吉の狛犬は、私が突然訪ねて行こうが、不在と云うことは決してありません。寒い日でも暑い日でも、神社をしっかり力強く守っていて、その頼もしい姿に、ますます惹かれていきます。

★橿原市・春日神社

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 電車を下車して、ぶらぶら歩くこと約40分で目的地に着きましたが、春日神社は養国寺という寺と隣接していると記されていましたが、地図には養国寺は載っているのですが、現地にはそれらしきものが見当たりません。なんとなくお堂の屋根らしきものが見えましたが、小さな集落は迷路のようで、標識も入口も見当たりません。どうも路地の奥に見えたこの門が、養国寺のようですが、入口には寺名も掲げられていません。

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2016年1月15日 (金)

新選組ウォーク ②

 会津藩や新選組は、新政府(明治政府)から徹底的に悪者に仕立て上げられました。中国や韓国が「反日」を掲げることで、民衆の支持と団結を得るために利用しているように、会津藩や新選組を徹底的に「朝敵」とか「逆賊」とか呼ぶことで、新政府を自賛して正当化し、一般民衆を恭順させてしまいました。この策略の張本人は、朝廷から追い出され洛北に蟄居させられていた下級公家の岩倉具視(孝明天皇暗殺の黒幕と云われる人物)です。「錦の御旗」を用いる策略に出て、そのために、寺の住職(仁和寺門跡)となっていた皇族の一人、仁和寺宮嘉彰親王(のちの小松宮彰仁親王)をかつぎ出します。日本では、昔から誰も天皇や皇族、皇居等には手を出さないと云う不文律があります(唯一の例外が、孝明天皇が居られる御所を砲撃した長州藩だけだったことは前回に述べました)。岩倉の策略の錦の御旗で、徳川幕府側の藩主も武士も庶民も、「錦の御旗には逆らえない」 として誰もが恭順してしまい、会津や桑名、新選組や彰義隊に手を貸すものはありませんでした。冒頭に記しましたように、特に新選組や会津藩に対する仕打ちはひどく、まるで見せしめそのものでした。長州藩は、鳥羽伏見の戦いで亡くなった会津藩や新選組の戦死者を収容・埋葬することさえ禁じ、いつまでも野ざらしにしたままでした。見るに見かねた京都の侠客・会津の小鉄が部下たちと、夜な夜な警備兵の目を盗んでは、一つづつ遺体や遺品を拾い上げては、会津藩の本陣であった東山の金戒光明寺に運び込み、遺体は寺で埋葬してやり(会津藩墓地が残っています)、遺品を調べては会津の遺族に送り届けてやっています(長州藩に比べて、なんという人間性の違いでしょう)。

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 島原の北、坊城通り五条下がるにある 新選組記念館。新選組を愛する人の個人博物館です。

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